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共進会のオフィシャル絵はがき
この絵はがきは、1910年(明治43)3月16日から6月13日の期間において、愛知県名古屋市で開催された「第十回関西府県連合共進会」の記念品として作られたものである。愛知県協賛会が発行し、著作権登録を受け、東京神田泰文社によって印刷された。大衆に向けて絵はがきのデザインを募集し、専門家の認定を受けた絵はがきが発行されたらしく、オフィシャルな記念品であるといえる。
裏面のデザインは、建物や風景の画像がはがき全面に印刷されているのではなく、一部に建物の画像があり、全体的に柄や模様がつけられていて加工が施されている。
はがきの右側にある画像は、共進会会場の「正門」を右斜め前から撮影したものであり、これは3か所の出入り口(画像中央部分)があることが特徴である。3つの出入り口の使い分けとしては、中央と左側の出入り口には改札があるため来場者の入場口とし、右側を出口としていたが、貴賓者が訪れる際には左側の改札を撤去して専用入り口にしていた。また、共進会は夜間にも開催されており、会場照明にはガス灯ではなく電気を使用していたため、この正門の外壁にも多数の電球を設置してイルミネーションが行なわれたという。
次に、はがきの左下部分について説明をする。ここには、北はおよそ関東地方から南は九州地方までの日本地図が示されており、地図内の各府県がピンクと白の2色に色付けされていることがわかる。ピンクで色付けされている府県は、共進会に参加した3府(東京府、京都府、大阪府)と26県であり、それ以外の府県を白色で表していると考えられる。そして地図の上からは「第十回関西府県連合共進会 明治四十三年 3.16―6.13 三府二十六県 会場名古屋市」と書かれた、共進会の記念印とみられるものが押印されている。
最後に、はがき全体を飾り付けている柄や模様についての説明をする。このはがきは、圧をかけて紙を盛り上げ、立体感のある浮き彫りを見せる加工方法であるエンボス加工を施している。緑色の大きな葉と釣鐘状をした房のように咲く薄紫色の花は「桐の花」とみられ、日本地図上の記念印の上部分にみられるハート型をした3つの赤い花の集まりが表すのは「三つ葉葵」と考えられる。これらは絵柄を浮き出させて立体感のあるつくりとなっている。そして、はがきの右下部分、右上部分、左下部分には「木瓜紋」が計3つ描かれていることもわかる。
これらの柄や模様はそれぞれ、「桐の花」を家紋にする豊臣秀吉、「三つ葉葵」を家紋とする徳川家康、「木瓜紋」を家紋とする織田信長の3人を表していると考えられる。戦国時代を生き、天下統一への道を歩んだ彼らは「戦国三英傑」と称されており、3名とも現在の愛知県(当時は尾張国と三河国)出身で名古屋にゆかりのある人物と言われている。現代では、祭りや展覧会等において三英傑を題材としたイベントが行われているが、明治時代においても日本の歴史を作った三英傑を扱ったアイテムがあったことがわかる。
この絵はがきは、第十回関西府県連合共進会の会場が名古屋市であったことや同時に名古屋開府三百年祭も行われたことから、名古屋にゆかりのある「戦国三英傑」がデザインされたものが作られたと考えられる。 (M)
絵はがきから伺える盛況ぶり
中央線の高架橋の東方に位置し、入口から見て真正面に建造された噴水塔と本館正門は共進会のシンボルともいえる。噴水塔が石造の本建築なのに対し、本館は会期中のみ使用されるため木造仮設建築であったという違いはあれど、どちらも古代ローマ様式を意識した意匠である。この写真では噴水塔に集う大勢の見物客、人力車と車夫や大八車などを見ることができる。この絵はがき撮影者の後方には人力車の丁場や鉄道院が設置した臨時鉄道営業所(現JR鶴舞駅)が造られており、この絵はがきに写っている見物客たちが人力車や汽車に乗って来場したことも想像できる。共進会の盛況ぶりをうかがわせる一枚である。
噴水塔
写真の中央にそびえたつ噴水塔は名古屋開府三百年記念会が「永久的建築物」として建造した。大理石の円柱と花崗岩の階段が特徴的な噴水塔は「東海建築界の巨匠」として活躍していた名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)の鈴木禎次工学士の設計である。また塔の周りの自然石の石組みは茶人の村瀬玄中の手によるものである。古代ローマ様式と日本の伝統文化が融合した見事な和洋折衷の建築である。なお正面左右の小池と裏側の扇状の大池は共進会の四年後に噴水の修景と霧よけのために造成されたものである。後年、地下鉄鶴舞線の工事のため一度解体を経て、1977年(昭和52)に再設置された際にも復元され、現在に至るため現在の噴水と共進会時では若干の違いがある。
本館正門
噴水奥の建物は共進会のメイン会場となる本館である。噴水塔と同様の古代ローマ様式を意識した建坪1万坪を超える巨大建築物である。この絵はがきにはその中央に配された正門を確認することができる。高い天井を持つ3か所の出入口は本館の堂々たる佇まいを感じさせる。3か所の出入口のうち中央及び左方は改札を設け入場口とし、右方を出口としていた。なお貴賓の訪問時は左方入口の改札口を撤去し貴賓用入口としていた。本館は木造の掘建造りであり、内外は漆喰塗り、床は三州土で塗り固められているが正門ではコンクリートが使用されていた。天井はモルタルで塗り固められている。屋根は瓦葺ではなくマルソイド及びラバロイドによる防水加工が施された。工期はわずか1年足らずであり、あくまで仮設の建築物であることが伺える。外壁には電球が多数設置され夜間は名古屋電燈(現中部電力)長良川発電所から引いた電力を使用しイルミネーションを行っていた。(K)
胡蝶ヶ池の歴史と現在
共進会の建物は、期間内だけの仮設の建物であり、現在は残っていないものがほとんどである。しかし、現在まで形を変えながらも残っているものの一つがこの胡蝶ヶ池と鈴菜橋である。
胡蝶ヶ池は共進会に合わせて村瀬、松尾両宗匠によって造られた日本庭園の一部である。そこにかかる橋が鈴菜橋である。写真の鈴菜橋は群馬県日光市の二荒山神社の神橋を模して作られた。鈴菜橋を挟んだ池の左右が蝶が羽を広げたような形になっていることと、中島が造られていることが特徴として挙げられる。
1945年(昭和20)9月に、進駐軍によって公会堂などが接収され、翌年には不衛生という理由で胡蝶ヶ池の南半分が埋め立てられ、鈴菜橋も取り壊された。埋め立てられた場所は数年の間ベビーゴルフ場として活用されていた。1952年(昭和27)に接収が解除されてから再び池が掘りはじめられ、1955年(昭和30)復元された。
鈴菜橋もその際に鉄筋コンクリート製で建て替えられた。擬宝珠のついた高欄が木造の旧鈴菜橋の特徴を受け継いでいる。木造の橋の場合に擬宝珠は木材の腐食を防ぐ目的で金属製のものをつけるが、現在は全て鉄筋コンクリートで作られているため、装飾としての意味が強いと考えられる。また現在の中島には本物と見間違うほど精巧な鶴の噴水や亀のオブジェが建てられている。
胡蝶ヶ池や、竜ヶ池を含めた一帯は、東屋やベンチが設置され、庭園を鑑賞するだけでなく利用者が園内を回遊し休憩するなど多様な楽しみ方がある池泉回遊式庭園の形を採用している。池には鴨や鷺、鵜などの野鳥や鯉が生息し、訪れた人たちを癒していた。池の周りには野鳥の写真を撮る人たちやベンチで休憩する人が多く見られた。
実際に現地で絵はがきと同じ画角での撮影を試みたが、角度が一致する写真を撮影することはできなかった。写真左側に見える陸地は岸ではなく、当時の胡蝶ヶ池の中島であり、絵はがきの橋の角度から考えると、絵はがきに使われた写真は中島から撮影されたのではないかと考えられる。共進会開催時の地図と見比べると池の面積が現在よりも小さく、中島と岸の距離も近いため中島に渡る橋は地図には描かれていないが、飛び石などあれば十分渡ることができたと考えられる。現在も中島に渡ることのできる橋は存在しなかったため同じ画角での撮影は断念した。橋脚のようなものだけが確認できたが中島の植木のメンテナンスの際に使われる橋のものであると考えられる。
時代によって細かな部分は変わっているが、共進会が開かれた明治から現在にいたるまで多くの人に愛される憩いの場であることは変わらないと考えた。また、共進会で作られた建物は会が終わると取り壊されてしまうものであったが、残されたものはなるべく当時の風景に近くなるように直されていることから歴史を伝える役割も担っていると考えた。
余談ではあるが、鈴菜橋の名前の由来が書かれた資料を発見することはできなかったため真相は不明であるが、仮説として、胡蝶池の「蝶」に関連して「菜」が用いられたことや、御器所の名産である御器所大根が由来となって付けられたことが考えられる。 (N)
絵はがきの特設蚕糸館について
写真に映ったもの
蚕糸館の正面から撮った写真。左上に薄い紫の共進会の記念スタンプがある。下部に紺色で日本語と英語のタイトルがつけられている。写真からは、屋根の上や、正面の二つの入り口に、日本の国旗が飾られているようすがわかる。
特設蚕糸館について
特設蚕糸館は大日本蚕糸会愛知支会によって経営され、会場内の敷地面積は90坪であった。共進会で設置された蚕糸館は、明治時代の愛知県の蚕糸産業の繁栄を反映している。従来の共進会では、農業館・工業館の両方に分けて出品されていた蚕糸業関係は、独立させて特設蚕糸館に集められた。蚕糸館の中では蚕糸の参考品が陳列され、参考資料として展示し、公衆に観覧させた。京都蚕業講習所等の陳列が特設された。当時の大日本蚕糸会愛知支会の資料から、蚕糸資料の展示の奥に、内外貴賓の接待を行う室が設けられていたことがわかる。
館内には、蚕の卵が成長し、糸になる過程の模型も展示されていた。展示された蚕の種類は主に白いまゆ(繭)、黄まゆと蚕まゆとなった。蚕の卵の模型は3尺2寸(約121.28センチ)ほどの大きさに拡大され、蚕が糸を吐き出す様子を観察できるようにシースルーになっていた。また、展示室では蚕の飼育に関する解説も加え、蚕糸の生産工程に思いを馳せることができるようになっていた。また、当時の愛知県の蚕糸業の展望や蚕糸業の普及に関する資料も紹介された。
館内平面図より、蚕の種類と一生や蚕糸製品、蚕糸業の効果の展示の設置だけではなく、来賓の優待室と休憩室等も配置されていたことがわかる。
当時愛知県の蚕糸業は国内販売だけでなく、フランス、イタリア、トルコ周辺地域にも輸出され、主な市場は当時の中国であった。
共進会は夜間開場(午後6時以降)があったが、ほとんどの陳列館は夜間は閉館となった。しかし、蚕糸館は、夜間も開館した。本来、共進会の夜間開場は、夜景を鑑賞しながら、イベントを開催することが目的であったが、蚕糸館の夜間開館は夜景の鑑賞だけではなく、館内の陳列を見て、優待室で休憩することもできた。
特設蚕糸館の現状
現在、鶴舞公園の中に蚕糸館の痕跡を見つけるのは難しい。蚕糸館の場所は現在の奏楽堂の近くから、春日亭とバラ園にあたりであったと推測できる。(L)




